JFCネットワークは、日本人とフィリピン人の間に生まれた子どもたち(Japanese-Filipino Children:JFC)を支援するNPOです。

特定非営利活動法人 JFCネットワーク

[ 目次 ]

1.国籍確認訴訟とは?
①日本国籍を取得できるのは?
②国籍法3条1項が憲法14条1項に反するのはなぜでしょうか?
③JFC国籍確認訴訟勝訴
④国籍確認訴訟原告団キャンペーン
⑤控訴審敗訴
⑥最高裁判所 違憲判決
⑦国籍法改正
2.当事者の声から
①子どもに日本国籍を与えたい理由
――母親たちの願い
――国籍とアイデンティティ 外国人として生きてゆくこと
――いじめ
――差別や偏見、権利の侵害

1.国籍確認訴訟とは?

2005年4月12日、原告となる9人のJFC(Japanese-Filipino children)が日本国籍の確認を求める訴えを東京地裁に集団で提訴しました。9人のJFCはいずれも結婚をしていないフィリピン人の母親と日本人の父親から生まれた子どもたちで、父親から出生後に認知を受けています。

9人の子どもたちが起した「国籍確認訴訟」とは「両親が結婚している・いないに関わらず、日本人の父親から認知された子どもたちには等しく日本国籍を与えて欲しい」という願いから、「両親の結婚を条件としている国籍法3条は法の下の平等を定めた憲法14条1項に違反する」と訴えた裁判なのです。

※憲法14条1項:すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において差別されない。

[ ①日本国籍を取得できるのは? ]

近年、日本人男性とフィリピン人女性のカップルが増えており、それとともに、その間に生まれる子どもたち(JFC:Japanese-Filipino Children)もまた増加しています。中にはさまざまな事情で両親が結婚していないケースも多くあります。

そして、JFCの中には父親が日本人にもかかわらず、日本国籍を与えられない子どもたちがいるのです。外国人と日本人のカップルから生まれた子どもたちは、現在の法律では次のような場合に日本国籍を取得します。

①結婚している日本人と外国人の両親から生まれた子ども
②結婚しているしていないに関わらず、日本人の母親と外国人の父親から生まれた子ども
③結婚していない外国人の母親と日本人の父親から生まれた子どもで、生まれる前に父親から認知(胎児認知)された子ども
④結婚していない外国人の母親と日本人の父親から生まれた子どもで、生まれた後に日本人の父親から認知(出生後認知)され、さらに両親が結婚した子ども

[ ②国籍法3条1項が憲法14条1項に反するのはなぜ? ]

国籍法3条1項は、日本人の父親と外国人の母親の婚外子は、日本人の父親から出生後に認知を受け、さらに両親が結婚すれば、届出によって日本国籍を取得できる、という内容です。

ではどうして、日本人の父親から出生後に認知を受けた婚外子は両親が結婚しなければ日本国籍を取得できないのでしょうか。その理由を国は、「婚外子は、両親の結婚と日本人父の認知により、日本国民の家族関係に包摂され、日本との密接な結びつきを有するに至る」からであり、また「婚外子の父子関係は通常の母子関係に比べて生活の同一性が希薄」だからだとしています。 つまり、結婚していない日本人の父親と外国人の母親から生まれた子どもは日本人の父親から認知を受けただけでは日本とのつながりは薄いが、両親が結婚することにより、日本人の家族として日本との関係が密接となり、また家族の生活の一体性も生じるため日本国籍を与える、というのです。

しかし、近年、国際化が進み、国際結婚も増え、「家族関係のあり方」における考え方や価値観もさまざまとなっており、結婚せずに子どもをもうけるカップルも少なくなく、実際の「家族の形」はさまざまです。そうした中、両親が結婚しているかどうかという子どものちからではどうにもならないことによって、子どもの国籍に違いをもうけるのは憲法14条で定められている法の下の平等に反すると考えます。

[ ③JFC国籍確認訴訟勝訴 ]

国籍確認訴訟には前例があり、最高裁判所は2002年11月22日の判決で、「出生後認知された子どもと胎児認知された子どもとの間で国籍取得に差異が生じても、憲法14条の法の下の平等に反しない」としました。しかしこの判決に携わった5人のうち3人の裁判官(亀山、梶谷、滝井裁判官)は、「国籍法3条1項が日本人父の認知に加え、両親の婚姻も要件としているのは憲法14条1項違反の疑いがある」との補足意見を述べています。

2005年4月12日には原告となる子どもたち9人が日本国籍の確認を求める訴えを東京地裁に集団で提訴し、その翌日の4月13日には、内縁関係にある日本人男性とフィリピン人女性の間に生まれたフィリピン国籍のJFC(7才)が、日本国籍の確認を求めた訴訟で、東京地裁は原告勝訴の違憲判決を言い渡しました。

そして、2006年3月29日午後1時より、東京地方裁判所712号法廷にて判決が下され、「国籍法3条1項が日本人父の認知に加え両親の婚姻を要件とするのは憲法14条1項に反する」として、原告9名の日本国籍取得を認める判決が下されたのです。

この2つの国籍確認訴訟における東京地裁の違憲判決は、同じ違憲判決でもその内容には大きな違いが3つあります。

まず、前述した国籍法3条1項を定めた目的(「婚外子は、両親が結婚し日本人父を含む家族関係に包摂有されることによって日本との密接な結びつきを有するに至る」)についての評価です。これについて、2005年4月の判決が、「両親の法律上の結婚は必ずしも必要ではないが、事実上の婚姻関係つまり内縁関係は必要である」とした一方、2006年3月の判決は、「両親の事実上の婚姻も含む婚姻自体を要求する必要はない」としたのです。

つぎに、2005年の判決は「結婚」の要件を「事実上の結婚を含む」と考えたため、「婚内子の身分」のみを違憲無効とした一方、2006年の判決は、「結婚」も「婚内子の身分」の両方の要件も違憲無効としたのです。

最後は実務上の問題です。2005年の判決を実務に取りいれようとすると、「両親の内縁関係」を調査する必要があります。しかし、「両親の関係」は時間とともに変化する可能性がありますし、第三者が判断することがとても難しい要素なので、国籍を取得できるかがかえって不明確になってしまいます。

一方、2006年の判決は両親の関係がどうであれ、日本人の父親から認知された子どもはみな日本国籍を取得する手続ができますので、実務上の問題もあまりなく、制度化にも困難がともないません。

[ ④国籍確認訴訟原告団キャンペーン ]

2006年の勝訴判決は弁護団の弁護士たちのはたらきが大きかったことは言うまでもありません。また、2002年の最高裁判決で負けたものの、3人の裁判官が補足意見として違憲を述べていたこと、さらに、2006年4月13日の地裁判決で勝訴したことなどの経緯をもあわせて考えれば、この問題を「問題だ」として社会に認知してもらう「時期」が熟してきていることも事実です。

しかし、原告の子どもたちとその母親たち自身の努力も相当なものでした。母親たちは、この問題を弁護士や支援団体に任せきりにするのではなく、「自分たちの問題としてだけではなく、同じような問題を抱えているすべての子どもたちのためにたたかう」という意思のもと、日本や日本国外の人々たちにもこの問題を知ってもらうようキャンペーンを展開してきました。

もともと、この9組の母子はJFCネットワーク(日本人とフィリピン人の間に生まれた子どもたちのために法的支援をしているNPO)のクライアントでした。すべてが相談に来た当時オーバーステイで日本人男性との間に子どもをもち、父親からの認知(うち2件はすでに認知あり)と在留特別許可を求めて相談にきたケースです。現在は9組すべてが在留特別許可を得て日本で暮らしています。

国籍確認訴訟の集団訴訟を起こすことになったきっかけは、母親たちからの訴えでした。「なんで日本人の父親から認知されても日本国籍取れないの?」と言われても、「そういう法律だから」と答えるしかありませんでした。同じような問題を抱えるケースはその当時、JFCネットワークには30件ありました。その30件の母親たちに手紙を出し、裁判への参加希望を募ったのです。そして、この9組が参加の意思を示し、最初のミーティングに出席しました。その後も毎月原告団ミーティングを持ちました。「なぜ子どもに日本の国籍を与えたいのか」についてそれぞれに意見を出してもらい議論しました。そして、「この問題を多くの人たちに知ってもらい、裁判に勝つために自分たちは何をしたらいいのか」を考え、裁判所宛てと法務大臣宛ての署名活動をはじめることとしました。署名活動を始めたのは2005年11月からだったにもかかわらず、翌年2月末日までのわずか3ヶ月で裁判所宛の署名用紙(団体10、個人2423名)(3月末日:団体10、個人3088名)を集め、裁判所に提出しました。それまでに法務大臣あるいは副大臣へ署名用紙の手渡しを予定して議員に調整してもらっていたのですが、係争中とのことで結局会えないことになり、それでも判決前には提出しようとのことになり、判決直前の3月28日に官僚へ手渡しました。集まった署名は団体10、個人3277名にもなりました。

母親たちのがんばりがあったからこそこれだけたくさんの署名が集まったのだと思います。署名活動に協力してくれそうな関東近郊にある教会リストを作り、11月から2月までのほとんどの日曜日毎に母親たちは子どもたちを連れて、自ら足を運び、問題を訴え、署名用紙を配りました。どこかでなにかしらの講演会があると聞きつければかけつけ、署名用紙を配りました。子どもたち自身も街頭に出て、「署名をお願いします」と呼びかけました。子どもたちのことですから、呼びかけても無視されたり署名をしてくれなかったりすると悲しくなり、泣きそうな表情になるとそれを見て、署名をしてくれる人たちもいたようです。原告団のほとんどは母子家庭で月曜から土曜日まで働いている人がほとんどですが、貴重な休みの日曜日を母子ともにこの活動のために注ぎこみました。 3月29日の地裁での勝訴判決は原告の子どもたちや母親たちに希望と勇気を与えました。9人の母親たちは「日本の国というとてつもなく大きな相手であっても、みんなでひとつになって力を合わせてがんばれば、たたかいに勝つことができるんだ」ということを身をもって体験したのです。

また、KAFIN(Katipunan ng mga Filipinong Nagkakaisa)やCJFF (Center for Japanese-Filipino Families)のようなフィリピン人の自助組織であるグループの協力もとても大きな支えとなりました。毎月の原告団ミーティングには原告の母親たちだけでなく、こうした支援団体からも常に数名が参加してくれ、提案や助言をくれました。署名用紙はタガログ語と英語でも作成し、国籍確認訴訟のニュースレターも3言語で作り日本国内だけでなく海外にも発信してくれました。

[ ⑤控訴審敗訴 ]

2006年7月16日、東京タワーが間近に望める聖アンデレ教会を会場に、国籍確認訴訟チャリティーコンサートを催しました。全体の企画から、母親や子どもたちの演技指導までボランティアで携わってくれたアリソン・オパオン(Alison Opaon)さんのフィリピンの歌のメロディーコンサートで始まり、原告団の母子が演じる自らの体験を基にした4つのエピソードを組み合わせたお芝居や踊りやマロンのパフォーマンスなど、思ったより多彩な内容のプログラムとなりました。 国籍確認訴訟控訴審の第一回期日が2006年9月19日にあり、原告である子どもたち3人と母親一人が意見陳述(陳述内容)しました。 2007年2月28日に国籍確認訴訟の控訴審判決がありました。結果は、一審とは逆転して敗訴となりました。判決の内容は、国側の主張に沿うもので、憲法判断についても触れられること無く、私達の立場からは不十分なものでした。

[ ⑥最高裁判所 違憲判決! ]

2008年4月16日(水)午後2時から最高裁判所大法廷で口頭弁論が行われました。原告で一番年長のジュリアンちゃんとお母さんは弁護士とともに法廷内の席に座ることができました。

口頭弁論は山口元一先生、近藤博徳先生、張學錬先生、細田はづき先生、濱野泰嘉先生が行いました。実は、原告の代表としてジュリアンちゃんに意見陳述をさせてもらうようお願いしたのですが認めてもらえなかったので代わりに弁護士さんがジュリアンちゃんの陳述書を読み上げる形をとりました。 最後の濱野先生の弁論は原告の子どもたちの状況を具体的に説明したものだったので比較的分かりやすく、ジュリアンちゃんの陳述引用したときにはジュリアンちゃんも目頭を抑えていました。

口頭弁論終了後、4時から司法記者クラブで記者会見が行われました。とくにマサミちゃんとジェイサちゃんがしっかり意見を述べていました。

6月4日(水)午後3時から最高裁判所で国籍確認訴訟の判決が言い渡されました。そして、生まれた後に父から認知されても、両親が結婚していないことを理由に日本国籍を認めない現在の国籍法は、憲法14条の「法の下の平等」に反すると判断したのです。これにより、結婚をしていない日本人の父親と外国人の母親から生まれた子どもで日本人の父親から認知を受けた子どもたちは、届出により日本国籍を取得することができるようになります。

2005年4月に地裁に提訴してから3年。この間、子どもたちもとても成長しました。提訴当時はあまり意味を理解していなく、テレビや新聞などで取り上げられてから、学校などでからかわれたりいじめられたりする子どもたちも中にはいました。そうした子どもたちはマスコミからの取材を拒否していたときもありました。それでも、子どもたち自身が自分自身の問題としてだけでなく、同じ問題を抱えている子どもたちの代表なんだという意識を持ち始め、記者会見でも堂々と自分の気持ちを述べるようになり、その姿は感動的でした。

また、日頃は母子家庭で喧嘩もすれば、わがまま言っている娘たち/息子たちですが、「お母さんたちに何か言いたいことは?」と聞かれた時に、恥ずかしそうにでもしっかりと「お母さんがこの裁判をおこしてくれなかったら今の私たちはなかった。私たちのために本当に頑張ってくれてありがとう」「日頃は本当に迷惑ばかりかけているわがまま娘だけど、お母さんに本当に感謝しています」などの感謝の言葉をかけていました。 3年の間、子どもたちもお母さんたちもさまざまな意味で成長しました。そして、何もできないと思っていた一外国人の個人の問題でもみんなで頑張れば問題を解決できるんだ、日本の法律だって変えられるんだ、という大きな達成感と充実感と自信を持つことができました。この判決が、日本に暮らす多くの移住労働者の人たちに力と勇気を与えることができたのであればなお嬉しいです。

弁護団の弁護士の先生方も本当に本当にお疲れ様でした。そして本当にありがとうございました。「法律」というものが、社会的弱者救済のためにあるべき所以だとしたら、その法律によって、権利を侵害されているものたちの救済はその法律の改正を求めていくほかなく、またそれには弁護士の先生方のご協力がなければ、非常に困難なことでした。

[ ⑦国籍法改正 ]

違憲判決に伴い、2008年12月12日に国籍法が改正され(施行は2009年1月1日)、両親が婚姻をしてなくても父親から認知を受けているケースは国籍取得が可能となりました。

2.当事者の声から

ここでは前述した原告団ミーティングの中でも話し合ったテーマである「子どもに日本国籍を与えたい理由」について、9人の原告の子どもたちやその母親たち、つまりその当事者たちの声をご紹介しようと思います。

まず、簡単な原告9人の概要を述べたいと思います。2005年4月の提訴時の子どもたちの年齢は1999年10月生まれの5歳から、6歳、7歳(3人)、8歳、9歳、そして1994年1月生まれの11歳(2人)でした。女の子が4人、男の子が5人です。父親から任意で認知を受けた子は3人、裁判による子は6人でした。現在、日本人の父親と一緒に暮らす子はなく、頻度は問わず行き来や連絡を取り合っている子が3人、その他6人は全くありません。3組以外は母子家庭であり、生活保護を受けています。3組のうち1組は内縁の夫と一緒に暮らしており、1組は子どもの父親ではない男性と結婚し、子どもも養子縁組しており、1組はフィリピン人の男性と結婚して一緒に暮らしています。9組のうち1組は同じ父を持つ姉妹で国籍が違い、姉は出生後に認知されたためにフィリピン国籍、胎児のうちに認知を受けることができた妹は日本国籍があります。

[ ①子どもに日本国籍を与えたい理由―母親たちの願い― ]

国籍とアイデンティティ

子どもに日本国籍を与えたい理由として最も多かったものはアイデンティティの問題でした。9人すべての母親たちがこれを理由に挙げています。その内容としては、「子どもは日本で生まれ育ち、日本語しか話すことができず、子どもの母国は日本で、母語は日本語であり、本人は日本人と自覚しており、おそらく将来も日本を基盤とした生活をしてゆく」というものです。9人のうち3人の子どもたち(11歳女、9歳男、7歳女)は程度の差はありますが、日本国籍がないことによる劣等感など否定的な影響を受けていました。

特に9人の子どもたちの中で最も年齢の大きいモエちゃん(仮名11歳)は「アイデンティティとしての国籍=日本」と「実際の国籍=フィリピン人」の異なることを受け入れられず、いらだって母親につらくあたることがこれまで何度もありました。「友達がたくさんいた娘が今、友達とうまくいかなくなってしまったのは、この問題の影響がとても大きい。娘のアイデンティティは「日本人」である以上、娘が「日本人」として認めてもらえない限り、彼女の自尊心は育まれません」とモエちゃんの母親は語ります。

9人の子どもたちすべては、父親が日本人で母親がフィリピン人だということを理解していますが、8人は自分を日本人だと思っています。フィリピン人と日本人のダブルだと思っている1人(6歳女)はインターナショナルスクールに通い、学校では英語を、家庭では日本語を使うという2つの言語を使い分ける生活をしている環境にいるため、子どものアイデンティティの形成が他の子どもたちとは異なっています。

また、9人のうち2人の子どもたち(9歳男、11歳男)は母子または家族でタガログ語を使って会話していますが、この2人は自分を日本人だと自覚しています。つまり、子どもたちのアイデンティティにとっては、母親や父親の国籍と自分の国籍が一致する必要はなく、自分自身が生まれ育っている場所や環境、培っている文化や価値観、母語として使っている言葉などにより日本人としてのアイデンティティを形成しているように感じます。

9人中8人の子どもたちが母親の国・フィリピンに行ったことがあり、否定的なイメージを持った子どもは1人いました。すべての子どもたちが、「フィリピンは母親の国であくまでも遊びに行くところであり、日本は自分の国で帰国するところ」と考えています。フィリピンに行ったことのない1人の子ども(7歳男)は「フィリピン」または「フィリピン人」ということをあまりイメージできず、未知の世界のようでした。

また1人(11歳男)は日本で生まれ、学齢期に数年フィリピンにいたことがありますが、病気を理由に学校から拒否され通学でいなかったことがあり、フィリピンによいイメージを持っていません。一方、日本に来てからは学校に通うことができるようになったので、「日本は僕を受け入れてくれた」というよいイメージを日本に持っています。

もちろん、個人のアイデンティティは、生まれてから死ぬまで一定ではなく、その成長過程に応じた経験や環境によって変化しうるでしょう。とくに、この9人の子どもたちのように母親がフィリピン人であれば、日本人同士の両親をもつ子どもたちよりもフィリピンという国や文化と接する機会は多いかも知れず、将来的に子どもたちがフィリピン人としてのアイデンティティを育むことも容易に想像できます。

しかし、とくに幼少期の子どもにとっては「何人」というアイデンティティの混乱を避け、ひとつの言語を母語として養うことがその子どもの健全な成長、言語や思考の発達には大切なのだと思います。

外国人として生きてゆくこと―いじめ―

のほかの理由としてあがったのはさまざまな外国人差別の問題でした。日本社会で外国人として生きてゆく厳しさが母親たちの体験からよくわかりました。

9人の子どもたちのうち6人(7歳男《2》、7歳女、8歳女、9歳男、11歳女)がいじめを受けた経験がありました。うち5 人(7歳男《2》、7歳女、8歳女、9歳男)はフィリピン人または外人ということでいじめられた経験がありますが、2人(7歳男)の場合、外国名を使っていた幼稚園や保育園ではいじめを受けましたが、小学校では父親の名字の通称名を使っており、いじめはないそうです。メイちゃん(仮名8歳)は同級生から「変な外人」と言っていじめられたことがありましたが、メイちゃんは精神的に強く、何を言われてもやり返していたので、そうしたいじめはなくなったそうです。ノゾミちゃん(仮名7歳)の場合、「友達とケンカをしたとき、『外人』と呼ばれるのがいやだ」と言って涙を流しました。最もいじめのひどいジョウくん(仮名9歳)の場合、学校や福祉の担当者から転校も勧められましたが、「どこに行っても変わらない」と言って転校を受け入れませんでした。前述のモエちゃん(11歳)の場合、いじめの原因は子どもが外国人だからという理由ではありませんでした。しかし、母親は、前述したモエちゃんのアイデンティティの問題が、彼女の性格の形成に大きく影響を与え、卑屈になり友達づきあいがうまくいかなくなってしまったと語ります。

差別や偏見、権利の侵害

その他、職業差別(外国の名前を聞いただけで面接を拒否される、一定以上の公務員になれない)、フィリピン人女性への蔑視(フィリピン人という理由で夫の両親や親戚から反対されたため、自分の子には同じ思いをさせたくない)、政治参加への権利の制限(選挙権や被選挙権がない)、入国管理局での定期的な在留資格の更新(日本政府にお伺いを立て許可されなければ日本で暮して行くことができない)、外国人排除(さまざまな理由で海外にいて何か事件があったとき、日本政府は海外にいる日本人を保護するが、外国籍の子どもたちは保護されるという保障がない)などがあがりました。

フィリピン人の夫が不当に逮捕された経験をもつ母親は「息子が日本でどんなに長く暮らしていたとしても、『外国人』として生きていく限り、息子も夫と同じような経験をしないとも限りません。息子はいつでもパスポートや外国人登録証を携帯していなければならないのです。いつなんどき、『外国人』という理由だけで不当に逮捕されるかもしれないのだとこのとき私たちは思い知らされたのです」と語りました。

このように母親たちの不安は数多く、とくに母子家庭の母親たちは、「私と子どもは二人だけの家族で親戚もいません。私に万が一のことがあった場合、誰が「外国人」の私の子を守ってくれるのでしょうか」と子どもの将来への不安を持っているのです。

日本国籍を持つことは日本で生まれ育ち日本人の父親をもつ子どもの権利です。優劣としての国籍ではなく、アイデンティティとしての国籍を持つことは、自分に自信を持ち、自尊心を養い、豊かな人間関係を築き、将来を自分の足で歩くためなのです。

資料

署名用紙

東京地方裁判所裁判官宛て

法務大臣宛

新聞記事

マニラ新聞

原告の意見陳述

訴状

判決文

控訴審

最高裁判

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国籍確認訴訟3条 イメージ写真

※東京書籍「新しい社会 公民」